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その巨大な豚のようなアクマと『黒の靴』のエクソシスト、リナリー・リーの戦い。
勝利をおさめたのは、リナリーだった。
とは言え、いかにも知性の低そうな見てくれとは裏腹に巨漢のアクマは強敵だった。
アクマが肩から生やした二本の太い触手は、それ自体が意思を持つかのように、時にアクマの視線や行動の起点とは別の動きをする。それは実に有効なフェイントであり、しばしば宙を舞いアクマを翻弄する戦いを本領とするリナリーを窮地に陥れた。
リナリーにとっては、先読みこそが攻守ともに戦いの要(かなめ)である。彼女の得意戦術である「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とは、すなわちスピードとリズムの緩急の技術を高めたもの。彼女が戦いにおいて敵を翻弄できるのは、優れた先読みの能力あってのこと。それを狂わされてはたまらない。
宙を舞う戦いの中、幾度か敵の丸太のように巨大な触手の鞭打を受け、地に叩きつけられた。
土埃と鈍痛にまみれ、骨と肉の軋みの音を聞いた。
しかし、ついにリナリーは活路を見出す。
至近距離まで接近した状態で、あえて敵の触手に自らをからめとらせ、敵の油断を誘い。
そこからワンインチパンチとも呼ばれる拳法の秘技、発勁の要領でゼロ距離からの蹴撃を叩き込んだのである。
みずからを絡めとった触手を踏みちぎると同時に、相手のあごに痛撃を叩き込み、意識が飛んだ状態の敵に対し、上空からの急降下から繰り出される破壊の鉄槌。
ぐしゃり、と。
敵の頭蓋を陥没させ、顎を砕いて地をなめさせる。
結果的には、鮮やかな逆転勝利だった。
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「素晴らしイ! 実に素晴らしイ!」
戦いを高見から見下ろしていた千年伯爵は、黒色のブーツの少女の勝利に惜しみない喝采を贈った。
「なれるかもしれなイ! アナタならなれるかもしれまセン! 新たな時代の聖母(マリア)ニ!」
「……!?」
新たな時代のマリア。
耳慣れない表現に、リナリーは眉をそびやかせる。
いまだ体に絡みついていた触手を忌々し気に引きはがしつつ、トカゲの尻尾のようにピクピクと痙攣を続けるそれを片手に、油断なく伯爵を見据える。
「…なに、それ? 私が、マリア?」
「ハイ! そうでス! 最強のアクマの母胎となり、新たな時代をも生み出す存在は、新たなる聖母マリアと言えまショウ!」
朗らかに。歌うように。高らかに。
伯爵はリナリーに、恐るべき賛辞を贈った。
「アナタは私の最終実験の有資格者たりうるエクソシストでス!」
パタパタと。欲しかったオモチャを前にした幼児のように落ち着きなく手足を振る、恰幅の良い中年紳士。
「アナタは! 貴女というヒトは!! 使い捨てされる惨めなる実験体とは明らかに違う存在なのでス!」
道化めいたシルクハットとコートで身を包んだ慮外の魔人が、まくしたてる。
千年伯爵と呼ばれる狂気の体現者が、随喜の表情でリナリーの未來を夢見る。
「最強のアクマを生み出した母胎として! 唯一無二の栄誉を、永遠に歴史に刻まれるのでショウ!!」
実際、伯爵は狂喜していた。
狂ったような喜悦の表情で、探し求めていた最終実験の素体を愛でる。
「祝福ヲ! 貴女の未來に祝福ヲ!!」
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リナリーは、口元に笑みを浮かべた。
純粋きわまる伯爵の笑顔とは、ある意味で真逆の意味で。
無理にでも笑みを浮かべないと、恐怖で叫び出してしまいそうだったのだ。
アクマを製造し続ける悪の首魁と一人で対峙し続けるには、並みのアクマとの戦い以上の精神力の消耗を強いられる。
悲壮な努力で作り笑いを浮かべつつ、リナリーは伯爵の言葉に応える。
「…ええ、そうね。祝福を」
倒す。
この場で。
人に仇なす怪物兵器アクマを生み出し続ける、この悪魔を。
世界を救うなどという大それた目的のために戦うのではない。
愛する人たちを守るために。
眼前の悪魔を彼女が知る人たちに、近づけさせないために。
すなわち彼女が知る、狭くささやかな世界を守り切るために。
戦って、倒すのだ。この敵を。
たとえ、己の命と引き換えにしても。
…この悪魔を、ここで終わらせる。
千年伯爵を、この場、この時、この身をもって、討ち倒す。
「ええ、祝福を。オマエが私に踏みちぎられる未来に!!」
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